2011年11月23日水曜日

「多賀城海軍工廠」の開廠日は

多賀城海軍工廠の開設は「昭和18年10月1日」ですが、「昭和17年10月30日」「昭和18年11月」などを主張する方もおり若干混乱がみられます。

(ⅰ)まず「昭和18年11月」についてはその根拠を示す史料を目にしたことがありません。もしかすると、「横須賀海軍施設部」が「昭和18年10月30日」に「竣工式」を行い(上写真)、実質的な稼働が11月との解釈かもしれません。しかし、「開廠日」はあくまで監督官庁、ここでは海軍省が決定するものです。したがって私は「11月」説をとるべきではないと考えています。

(ⅱ)「昭和17年10月30日」は『多賀城市史』(第2巻p361)の説です。しかしこの時期の多賀城海軍工廠開設はあり得ません。海軍工廠とは海軍の武器を製造(ないし修理)するところですから、工廠開設のためには工廠施設群が完成していなければなりません。しかし昭和17年の秋は、ようやく住民の移転が終了し、本格的な造成工事に入る時期です。地元住民が発刊した『古里の笠神を訪ねて』『恩讐の彼方に沖区あり』によれば、買収は昭和17年6月4日から始まりましたが、移転は発破をかける近隣の一部を除き、稲刈り修了後でした。 
   「昭和17年10月30日」説は『サンケイ新聞』(1977.8.15)に掲載された小川澄夫氏の記事によっているものと思われます。氏によれば、塩釜神社の日誌(昭和17年10月30日)に佐藤重三郎宮司が多賀城海軍工廠の第1期工事竣工式で祝詞をあげたとしています。
私は最近になり二つの点でこの記事に疑問をもつようになりました。ひとつは上記の理由によりこの時期の海軍工廠の開庁はあり得ないということ。もう一つは、『多賀城市史』がこの式に横須賀鎮守府司令長官豊田副武が臨席していた、としていますが、豊田はこの時期まだ「横須賀鎮守府司令長官」になっていません。要するに、この記事は小川氏の勘違いではないか、ということです。それで鹽竃神社博物館の茂木裕樹学芸員に問合せたところ、2011年12月2日に回答をいただきました。それは「昭和17年10月30日には多賀城におもむいた形跡はなく、18年10月30日に出かけています」というものでした。要するに「昭和17年10月30日」は「昭和18年」の間違いだったのです。
こうして「昭和17年10月30日」説は否定されることになりました。今そのコピーを見せていただくようお願いしているところです。
(追記:2012年2月22日に市文化財課を通じ、昭和17年から19年までの10月30日の塩竈神社日誌をいただきました。17年、19年には記述が無く、18年には次のように記されています。〔十月三十日 土曜 曇夜雨/宿直主典澤田武弘/一、宮司 庄司主典 櫻井石川両出仕 神沢 佐々木 杉山各/生徒並土井小使い多賀城海軍工場第一期工事竣工及開廠奉告祭/執行ノタメ出向 午後一時帰社〕

(ⅲ)多賀城海軍工廠の開設日を「昭和18年10月1日」とする根拠は明白です。まず「海軍工廠令」です。多賀城海軍工廠は昭和18年9月21日付の「勅令七百三十一号」で規定されており、「本令ハ昭和十八年十月一日ヨリ之ヲ施行ス」とあります(原本の写しをネットで確認できます☛「国立公文書館ディジタルアーカイブ」)。他の海軍工廠も「海軍工廠条例」ないし「海軍工廠令」の施行日を開廠日としています。加えて私は、複数の方から「工廠工員手帳」を見せていただきコピーも保存していますが、多くの熟練工員が横須賀海軍工廠や豊川海軍工廠から移動してきました。その方々の転任日も同年「10月1日」となっています。ほか、海軍省最後の軍務局長であった保科善四郎は「初代の工廠長は勝田兼重技術少将で、十八年十月に赴任した」(『多賀城市史』第5巻〔2〕p763)とはっきり証言しています。「多賀城海軍工廠」の開庁日は「昭和18年10月1日」であることは疑いようがありません。

(ⅳ)当初私の頭を悩ませたのは、「昭和十八年十月三十日/多賀城海軍工廠竣工記念式記念/横須賀海軍施設部」の説明書きのある冒頭の写真です。「多賀城海軍工廠の開庁日との関連をどう整理すれば良いのか?」。しかし、「横須賀海軍施設部」と「多賀城海軍工廠」との関係が把握できれば容易に解釈できます。この写真は、横須賀海軍施設部の仕事である多賀城海軍工廠を造る仕事が一応完了した、という段階で、同施設部が多賀城海軍工廠竣工式をおこなった際の記念写真です。つまり開廠後に落成式をおこなったということです。戦争にたちむかう慌ただしさを感じます。なお海軍省の名称変更に合わせたものと思いますが、昭和18年に「横須賀海軍建築部」は「横須賀海軍施設部」と改称、それにともない現地事務所も「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」となりました。「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」は、大代の元船場にありました(写真下)。この写真は水田の耕地整理が終わっていますので昭和30年頃のものです。縦の水路がわが国最長の貞山運河、西(左)から流れて来るのが砂押川です。砂押川を北に渡った所にある大きな建物が「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」です。


(ⅴ)以上を要約すると以下のようになります。
■昭和17年10月30日説→これは塩竈神社日誌と豊田副武の横須賀海軍司令長官の就任日により否定されました。
■昭和18年10月1日→「多賀城海軍工廠」開廠日。改正(勅令731号)「海軍工廠令」の施行日。この日、初代多賀城海軍工廠工廠長勝田兼重技術少将をはじめ多くの工員が着任し、開廠式が行われた(はずである。現在のところその証言はまだ得られていない)。だが、まだ工作機械は据えつけられておらず(元機銃部工員嶺岸儀蔵氏の証言)、製造開始はもっと遅れたもよう。
■昭和18年10月30日→多賀城海軍工廠用地の買収・造成と建築をつかさどる横須賀海軍施設部の仕事(機銃部)がおわり、竣工式が行われた日。この日を境に「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」の体制は大幅に縮小されたものと思われる。しかし、未完成部分が多く残されていた。特に火工部においてはまだ土塁が完成しておらず、この直後(昭和18年12月11日)に大爆発という大惨事を起こし19年まで製造不能の状態となった。

1 件のコメント:

  1. 初めまして

    故佐藤重三郎 は私の伯父でした

    若き日には 佐々木侯爵家の書生をして国学院で学び 皇典研究所を経て

    伊勢神宮 禰宜 関東神宮宮司 塩釜神社宮司 

    終戦で満州引き上げ後は 国学院の理事を務めておりました

    近々に「 帯の幸せ ブログ」で 関東神宮 悲劇の三百二十二日 佐藤重三郎氏を

    語ろうと思っております

    画像も入ります ご訪問くださいませ

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