2012年3月13日火曜日

あいつぐグラマン空襲――多賀城国民学校の日誌から

  「多賀城国民学校」(現多賀城小学校)の日誌が忠実に記念誌『多賀城小学校の百二十五年』に掲載されており、以下の「警戒警報」「空襲警報」が記録されています。なぜこれほどの警報が発令されたか?多賀城海軍工廠の存在抜きには考えることができません。

《昭和19年》
・5/20 pm6:50警戒警報発令。
・5/21 警戒警報発令中につき宿直増員。
・6/16、17、19 警戒警報発令。
・8/5 空襲警報発令。
《昭和20年》
・2/6 空襲警報発令につき児童退避せしむ。
・2/7 命により初等科3年以下児童出校停止。am10: 30、警戒警報発令につき下校せしむ。
・2/27 9:20警戒警報発令。
・4/12 警戒警報・空襲警報発令。
・4/13 警戒警報発令。
・4/22 空襲警報発令(8:20~8:50)。
・5/11 警戒警報発令(9:15~10:19)。
・5/13 警戒警報発令(13:00)。
・5/25 警戒警報発令(8:50~9:00)、解除後B29一 機来襲。
・6/10 警戒警報(9:00~9:26)。
・6/23 警戒警報発令(8:40~9:00)。
・6/24 警戒警報発令(0:00~1:30)。
・6/25 警戒警報発令(23:50~2:10)。
・6/27 東北北地区警戒警報発令(0:27~1:55)。
・6/28 警戒警報発令。
・6/29 警戒警報発令。敵機二機来襲。
・7/2 警戒警報発令。
・7/3 警戒警報発令(23:00)。
・7/4 警戒警報発令(1:00)。
・7/5 警戒警報発令(23:50)。
・7/6 警戒警報発令(3:00)。
・7/9 警戒警報発令(21:00)。
・7/10 空襲警報発令(0:00)。「仙台市内が爆撃さ れ相当被害ある模様なり。空襲のため校長、浜田、 朝倉、砂野先生宅焼失す」。空襲警報発令(23:00)。
・7/11 警戒警報発令(23:45~0:45)。
・7/12 警戒警報発令(23:30~1:30。一部空襲あり)。
・7/13 空襲警報発令(20:30)。
・7/14 警戒警報・空襲警報発令(5:15~23:30)。 警戒警報発令のため授業行わず職員作業を行う。
・7/15 警戒警報発令(5:30~10:45、13:35~16:05)。
・7/16 空襲警報発令(5:00)。初等科児童出校停止、 職員作業を行う。
・7/17 空襲警報発令(5:00)。初等科児童出校停止、 職員作業を行う。
・7/18 初等科児童出校停止、授業行わざる日。
・7/19 初等科・高等科児童出港停止、授業行わざる 日。
・7/20 警戒警報発令(0:00~1:30、9:20~10:30、1 2:40~13:30)。初等科・高等科児童出港停止、授 業行わざる日。
・7/24 警戒警報発令しばしばあり。
・7/25 警戒警報発令。
・7/27 警戒警報発令(20:00)。
・7/28 警戒警報発令(11:00~13:30)、空襲警報発 令(20:00~0:30)。
・7/29 警戒警報発令(9:30~11:00)。
・7/31 警戒警報発令。
・8/6 警戒警報発令(8:50~9:20、23:00)。
・8/7 警戒警報発令(22:50~11:30)。
・8/8 警戒警報発令(10:30~12:10)。
・8/9 空襲警報のために授業行わず。空襲警報発令 (5:40~17:25)。グラマンF6F五機、爆弾一発投 下。
・8/10 警戒警報発令(5:25)。空襲警報発令(5:30 ~17:30)。「敵艦載機終日来襲す。グラマンF6F 百機、爆弾16発投下。死者2名、負傷者27名」。 空襲のため授業行わず。
・8/11 空襲警報発令(11:20~11:45)。
・8/12 警戒警報発令(16:17~16:35)。
・8/13 警戒警報発令(5:15)。
・8/14 警戒警報発令(8:15、23:00、0:00)。
・8/15 警戒警報発令(7:55)につき授業行わず。  正午、玉音放送。

2012年3月11日日曜日

多賀城海軍工廠の完成品は横須賀海軍軍需部へ

    多賀城海軍工廠で製造された機銃や弾丸、爆弾等は引込線積出場から東北本線を経、横須賀海軍軍需部倉庫に運び込まれ、そこからまた「ゼロ戦」組立工場等へ送られました(機銃部勤務嶺岸儀蔵さんの証言)。横須賀軍需部の倉庫群は現在相模運輸倉庫等として使用されています。


2012年3月2日金曜日

海軍区令(大正12年3月26日勅令第56号)による鎮守府の管轄図

  「全国14ヵ所にあった海軍工廠」に記したように、海軍工廠令により各工廠は必ず鎮守府に所属することになっていた。多賀城海軍工廠は横須賀鎮守府に所属していたわけであるが、そもそもの鎮守府の管轄が何により規定されていたのか。それは海軍区令によってである。すなわち同令第1条により陸海上に第1~4の海軍区が設定され、第2条で各海軍区に軍港を置くことにし、さらに第4条で各海軍区は各軍港に置かれた鎮守府により管理されることになっていた。海軍区、軍港、鎮守府の関係は以下のごとくである。
(図は「海軍区令」〈大正12年3月26日勅令第56号〉にもとづき藤原が作成した)。






第1海軍区 管轄区域:下表のとおり 軍港:横須賀  横須賀鎮守府
第2海軍区 管轄区域:同        軍港:呉     呉鎮守府
第3海軍区 管轄区域:同        軍港:佐世保  佐世保鎮守府
第4海軍区 管轄区域:同        軍港:舞鶴    舞鶴鎮守府 















2012年2月1日水曜日

多賀城の水道の始まりは「多賀城海軍工廠」

多賀城市八幡2丁目の末の松山浄水場入口左手にある多賀城市「水道沿革碑」。同浄水場は横須賀海軍施設部が現仙台市岡田に井戸を掘り、集水した水を浄水するために造った浄水場。浄水された水はここから現多賀城高校北側にある「天の山配水池」に送水され工廠関連諸施設に給水された。上写真左にある消火栓は横須賀海軍施設部によるもので、上部に錨マークがついている。    海軍工廠造営時に造られた水道施設の所管は、米軍、防衛庁を経、多賀城市に全面移管されたのは昭和54年4月で、比較的最近のことである。









多賀城高校北側にある天の山配水池。写真は海軍工廠時の配水池を解体し、2基目の新配水池を造ろうとしている時期のもの(多賀城市水道部提供)。

なお以上「末の松山浄水場」「天の山配水池」の地図上の位置については、2011年11月26日の掲載した「多賀城海軍工廠跡の現況」図でご確認ください。

塩釜市立病院になった「多賀城海軍工廠共済病院」

臨海鉄道となった「多賀城海軍工廠」引き込み線

【臨海鉄道となった工廠引込線】
仙台臨海鉄道は昭和46年7月に開港した仙台港とその背後の工業地帯と全国の鉄道網を結ぶ目的で昭和45年11月7日、国鉄・宮城県・東北石油などの進出企業の共同出資で設立されました。開業は翌46年10月1日で、午前10時から仙台港駅構内で開業式が行なわれました。当日の気候は「晴天にして風やや強く」、10時25分に三発の花火を打ち上げ、それを合図に石油を満載した第一号列車が山王駅にむかいました。当然ですが多賀城町長も来賓としてテープカットをしました。この臨海鉄道のルートは多賀城海軍工廠の引き込み線のルートをそのまま使用しています。











未だ謎に包まれる火工部の大爆発(1943・12・11)

昭和18年12月11日、開廠したばかりの多賀城海軍工廠火口部は大音響とともに爆発炎上した。その実態はいまだ謎に包まれている。



多賀城海軍工廠・動員学徒の覚書(黒羽武蔵作)その2










多賀城海軍工廠・動員学徒の覚書(黒羽武蔵作)その1