2011年11月29日火曜日

悲惨を極めた「菅原組」の強制労働



多賀城海軍工廠での強制労働(具然圭さんの証言)
私(具然圭)の故郷は忠清南道である。父は小作人で家が貧しく、学校には行けなかった。1943年9月、日本に行くという「募集」があったので応じた。父母は反対するだろうから、だまってきた。契約は1年である。同じ村から十何人か一緒だった。一旦「京城」で服を着替え、それから汽車で釜山についた。「日本に行けるんだ」と無性に嬉しかった。船底にムシロが敷いてあり、会社の幹部が「北海道で一年位働くことになるが、待遇はよくする。」といった。そのまま小樽へ、そして釧路へ、やがて千島に着いた。船は大きく揺れ、食事はすべてカンパンであり、一回にカンパン三つづつくれた。
着いた翌日から仕事に掛かったが、それは海軍の飛行場建設であった。「自分」の属していたのは菅原組で、ここはタコ部屋であった。
仕事は始めからトロ押しで、終わりまでトロ押しをやらされた。食事は細長い外米でくさかったし、量も食器に盛りきり一杯で、おかずはなく汁一杯だけであった。バラック小屋に寝かされたが、枕は長い丸太でできていた。妙な枕だとは思ったが、そんな枕を使う理由は一晩寝て判った。早朝全員が眠りこけているとき、幹部が、丸太枕のはしっこをコン棒で力一杯たたくのである。一瞬何事かとビックリしてはね起きた。「自分」はある発破かけの際、発破穴をのぞき、その時不意に爆発したため右目をやられた。今もよく見えないこのい目だが、目をやられて血が流れ出るのに病院にも行かせず医者にもっかけなかった。やむなく手ぬぐいで間の部分を押さえて仕事を続けた。
奴等はよくなぐった。気絶して倒れたら水をかけた。死んだらタキギを集めて死体をのせ、油をぶっかけて焼いた。死んだ人は何人もみた。監視が厳しい。飯場から別の飯場には絶対に行けなかった。半年で仕事を終わって日本に行くといわれたが、給料なんかもらったこともなく、金はみたこともない。
日本に行く途中、逃走しようと機会をうかがったが、便所にまで番兵がいるのでできなかった。仙台から多賀城に着き、大きな倉庫に入れられたが窓もなかった。これが菅原組の松原飯場であった。
大きな錠前があって、夜は錠をかけ終夜番人が行ったり来たりした。またセパードを飼っていて、夜は放し飼いにした。夜具は毛布二枚だけであったし、食事は千島と同じでメシと汁だけだ。
朝は飯場の前で整列させられ番号を呼ばれた。名前など呼ばず番号で呼ぶので他の人の名も互いに知らず過ごした訳だ。現場までは二十分位歩くが、並んで歩き、これに監督が四人に付き一人づつ付いていた。着物はいつも作業ズボンで一着もらえば何ヶ月もくれなかった。上はいつも裸同然で、ズボンもボロボロで半ズボンみたいだった。多賀城には一年以上いたが、風呂には一度も入ったことがない。勿論、千島でも入れてくれなかった。床屋もない。そして、夏も冬もハダシであった。ひるメシは握りメシ一個であった。冬は凍ってコチコチであった。トロ押しでよごれたままの手でその握りメシを食うのだが、仕方がないのでセメント袋をちぎって、その紙でメシをうけて食べた。その紙を大事にしまっていつもその紙で受けて食べていたが、しまいにはゴワゴワに固くなって折りまげられなくなった。
一年の「契約」期限が近づいた。皆で「二度と日本にくるもんではない」といいあった。期限直前、警察がゾロゾロ入ってきた。「あんた方はよく働いてくれました。ごくろうさんです」といった。「このバカヤローたち何をいうつもりだい」と思った。朝鮮人である隊長、班長が交互に「もう一度契約しろ」と朝鮮語でいった。それまでが我慢の限度だった。皆は手に手に棒や薪、手当たり次第の獲物を持って隊長や班長、菅原組の幹部や警察官(特高警察)らを襲いたたきのめした。十何人もいた警官らは逃げた。やがて海軍がきた。隊長が「仕方がないからもう一年やろう」といった。皆は従った。…
(「東北地方における朝鮮同胞強制労働と虐待の実態について」琴ビョン洞著より)



海軍は船岡火薬廠を守るために、米軍機の太平洋側からの攻撃にそなえ、同火薬廠の東側にある三門山(みつもんやま)に高射砲陣地を築くことにし、菅原組に請け負わせた。「昭和18年11月14日」と日付があるがほとんどが上半身裸、裸足であり、タコ労働の過酷さが伺われる。ネット上でタコ人夫の写真を見かけることもあるが、場所・日付が未確定のものが多いなか、タコ労働の実相の一端を伝えるこの写真は極めて貴重なもの。日付入り写真なので竣工記念写真と思われるが詳細は不明(わかり次第加筆します)。この写真は2003年10月に「くらしと民主主義、史跡・緑を守る多賀城懇話会」が多賀城市立図書館で行った『造営から60年―目で見る多賀城海軍工廠展』の際、和泉和歌子氏より提供を受けた。



朝鮮人徴用工員と宿舎










【写真上】大代の橋本にあった「朝鮮人徴用工員宿舎」の全景。正しくは「横須賀海軍施設部多賀城工員宿舎」という。「海軍工廠施設部」と解説しているものもあるが、「施設部」は「海軍工廠」ではなく「横須賀海軍」の部署である。また「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」は大代元船場にあった(多賀城海軍工廠を造った「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」参照)。また「多賀城海軍工廠機銃部」と解説している例もあるがそれも誤解である。


昭和18年9月22日、「横須賀海軍施設部多賀城工員宿舎」舎監の佐藤三郎は工員慰安のために横綱照国の巡業を行った。2枚の写真を見比べると、土俵や宿舎の配置等から同じ施設であることがわかる。



多賀城の造成・建築を担った人たち



本史料は横須賀海軍建築部が示した「多賀城海軍工廠」造成・建築のための「多賀城実施部隊編成表」。右端の「第  部隊」は朝鮮人徴用工員の作業隊。2列目は「第一特別作業隊」で鹿島、大林等の建設会社「協力会」。3列目は「第二特別作業隊」で宮城刑務所の囚人の作業隊。飯場は高砂村出花にあった。現ジャスコ多賀城店のやや西側にあたる。4列目は「第三特別作業隊」でタコ部屋で有名な「菅原組」の部隊。名前から判断するに、「第一中隊」は日本人、「第二中隊」は朝鮮人の作業隊だったようである。5列目の「第四特別作業隊」は多賀城村と相模運輸の作業隊。朝鮮人徴用工員、宮城刑務所囚人、菅原組は造成を担い、協力会は建築を請け負った。

2011年11月26日土曜日

多賀城海軍工廠を造った「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」


【写真上】昭和9年にその大部分を坂定義(現坂総合病院初代院長)が寄附をして建てられた「報恩文武道場」前での皇紀2600年を記念しての写真。1940年11月か。道場の北西方向に銀杏の大木が、西方向に旧「西園寺」の庫裏が見える。左手の建物は応接室として使用され、右手建物は玄関奥が柔道場として、右手奥が剣道場として使用され、奥には神棚があったという。写真中央に坂猶興医師(現坂総合病院2代目院長)の顔が見え、道場建設の際、坂家が果たした役割の高さが伺える。左隣は赤松元多賀城尋常高等小学校校長。この時期平日の日中は、柔道・剣道両道場を多賀城国民学校の初等科3年生女子50名が教室として使用していた。横須賀海軍建築部多賀城工事仮事務所は昭和17年5月、「報恩文武道場」の応接室に置かれ、事務所完成後、大代船場に移転した。(写真提供:板橋正晃氏)




【写真上】横須賀海軍施設部による多賀城海軍工廠竣工式記念写真(昭和18年10月30日):多賀城海軍工廠の用地造成と建築作業は横須賀海軍建築部(のち施設部)が発注・指揮した。昭和17年5月、仮事務所は西園寺境内の「報恩文武道場」応接室(玄関左側の部屋)に置かれ、大代元船場に移転した。「建築部」は昭和18年8月「施設部」と改称。海軍工廠令、工員手帳などから多賀城海軍工廠の開設は翌18年10月1日であることがわる。同月30日に横須賀海軍施設部により多賀城海軍工廠竣工式が行われた。多賀城海軍工廠造設工事は基本的に終了したということだが、皮肉にも12月11日に火工部の大爆発が発生。施設部の仕事は終戦まで続いた。




【写真上】この写真は昭和30年ころのもの。多賀城工事事務所をはじめ倉庫群・資材置場等、横須賀海軍施設部関係の施設は大代地区に集中していた。塩釜港で建築資材を荷揚げし貞山運河で大代まで運ぶという地理上の配置と思われる。南北に走っているのが貞山運河、西から流れて来るのが砂押川。砂押川を北に渡り右折、その南側にある大きな建物が多賀城工事事務所である。現在、横須賀海軍施設部の諸施設が設置されていた用地の大半は、緩衝緑地公園と流域下水道用地となっている。

多賀城海軍工廠の用地造成にあたる工員の宿舎も大代に集中していた。写真上は大代橋本にあった朝鮮人徴用工員宿舎での写真。貞山運河を渡り、北側にあった大きな建物。同工員は順国家公務員扱いで、宿舎の名は「横須賀海軍施設部多賀城工員宿舎」と呼ばれていた。




「多賀城海軍工廠」跡の現況

2011年11月23日水曜日

「多賀城海軍工廠」の開廠日は

多賀城海軍工廠の開設は「昭和18年10月1日」ですが、「昭和17年10月30日」「昭和18年11月」などを主張する方もおり若干混乱がみられます。

(ⅰ)まず「昭和18年11月」についてはその根拠を示す史料を目にしたことがありません。もしかすると、「横須賀海軍施設部」が「昭和18年10月30日」に「竣工式」を行い(上写真)、実質的な稼働が11月との解釈かもしれません。しかし、「開廠日」はあくまで監督官庁、ここでは海軍省が決定するものです。したがって私は「11月」説をとるべきではないと考えています。

(ⅱ)「昭和17年10月30日」は『多賀城市史』(第2巻p361)の説です。しかしこの時期の多賀城海軍工廠開設はあり得ません。海軍工廠とは海軍の武器を製造(ないし修理)するところですから、工廠開設のためには工廠施設群が完成していなければなりません。しかし昭和17年の秋は、ようやく住民の移転が終了し、本格的な造成工事に入る時期です。地元住民が発刊した『古里の笠神を訪ねて』『恩讐の彼方に沖区あり』によれば、買収は昭和17年6月4日から始まりましたが、移転は発破をかける近隣の一部を除き、稲刈り修了後でした。 
   「昭和17年10月30日」説は『サンケイ新聞』(1977.8.15)に掲載された小川澄夫氏の記事によっているものと思われます。氏によれば、塩釜神社の日誌(昭和17年10月30日)に佐藤重三郎宮司が多賀城海軍工廠の第1期工事竣工式で祝詞をあげたとしています。
私は最近になり二つの点でこの記事に疑問をもつようになりました。ひとつは上記の理由によりこの時期の海軍工廠の開庁はあり得ないということ。もう一つは、『多賀城市史』がこの式に横須賀鎮守府司令長官豊田副武が臨席していた、としていますが、豊田はこの時期まだ「横須賀鎮守府司令長官」になっていません。要するに、この記事は小川氏の勘違いではないか、ということです。それで鹽竃神社博物館の茂木裕樹学芸員に問合せたところ、2011年12月2日に回答をいただきました。それは「昭和17年10月30日には多賀城におもむいた形跡はなく、18年10月30日に出かけています」というものでした。要するに「昭和17年10月30日」は「昭和18年」の間違いだったのです。
こうして「昭和17年10月30日」説は否定されることになりました。今そのコピーを見せていただくようお願いしているところです。
(追記:2012年2月22日に市文化財課を通じ、昭和17年から19年までの10月30日の塩竈神社日誌をいただきました。17年、19年には記述が無く、18年には次のように記されています。〔十月三十日 土曜 曇夜雨/宿直主典澤田武弘/一、宮司 庄司主典 櫻井石川両出仕 神沢 佐々木 杉山各/生徒並土井小使い多賀城海軍工場第一期工事竣工及開廠奉告祭/執行ノタメ出向 午後一時帰社〕

(ⅲ)多賀城海軍工廠の開設日を「昭和18年10月1日」とする根拠は明白です。まず「海軍工廠令」です。多賀城海軍工廠は昭和18年9月21日付の「勅令七百三十一号」で規定されており、「本令ハ昭和十八年十月一日ヨリ之ヲ施行ス」とあります(原本の写しをネットで確認できます☛「国立公文書館ディジタルアーカイブ」)。他の海軍工廠も「海軍工廠条例」ないし「海軍工廠令」の施行日を開廠日としています。加えて私は、複数の方から「工廠工員手帳」を見せていただきコピーも保存していますが、多くの熟練工員が横須賀海軍工廠や豊川海軍工廠から移動してきました。その方々の転任日も同年「10月1日」となっています。ほか、海軍省最後の軍務局長であった保科善四郎は「初代の工廠長は勝田兼重技術少将で、十八年十月に赴任した」(『多賀城市史』第5巻〔2〕p763)とはっきり証言しています。「多賀城海軍工廠」の開庁日は「昭和18年10月1日」であることは疑いようがありません。

(ⅳ)当初私の頭を悩ませたのは、「昭和十八年十月三十日/多賀城海軍工廠竣工記念式記念/横須賀海軍施設部」の説明書きのある冒頭の写真です。「多賀城海軍工廠の開庁日との関連をどう整理すれば良いのか?」。しかし、「横須賀海軍施設部」と「多賀城海軍工廠」との関係が把握できれば容易に解釈できます。この写真は、横須賀海軍施設部の仕事である多賀城海軍工廠を造る仕事が一応完了した、という段階で、同施設部が多賀城海軍工廠竣工式をおこなった際の記念写真です。つまり開廠後に落成式をおこなったということです。戦争にたちむかう慌ただしさを感じます。なお海軍省の名称変更に合わせたものと思いますが、昭和18年に「横須賀海軍建築部」は「横須賀海軍施設部」と改称、それにともない現地事務所も「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」となりました。「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」は、大代の元船場にありました(写真下)。この写真は水田の耕地整理が終わっていますので昭和30年頃のものです。縦の水路がわが国最長の貞山運河、西(左)から流れて来るのが砂押川です。砂押川を北に渡った所にある大きな建物が「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」です。


(ⅴ)以上を要約すると以下のようになります。
■昭和17年10月30日説→これは塩竈神社日誌と豊田副武の横須賀海軍司令長官の就任日により否定されました。
■昭和18年10月1日→「多賀城海軍工廠」開廠日。改正(勅令731号)「海軍工廠令」の施行日。この日、初代多賀城海軍工廠工廠長勝田兼重技術少将をはじめ多くの工員が着任し、開廠式が行われた(はずである。現在のところその証言はまだ得られていない)。だが、まだ工作機械は据えつけられておらず(元機銃部工員嶺岸儀蔵氏の証言)、製造開始はもっと遅れたもよう。
■昭和18年10月30日→多賀城海軍工廠用地の買収・造成と建築をつかさどる横須賀海軍施設部の仕事(機銃部)がおわり、竣工式が行われた日。この日を境に「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」の体制は大幅に縮小されたものと思われる。しかし、未完成部分が多く残されていた。特に火工部においてはまだ土塁が完成しておらず、この直後(昭和18年12月11日)に大爆発という大惨事を起こし19年まで製造不能の状態となった。

全国14ヵ所にあった「海軍工廠」



終戦時、「海軍工廠」は全国14ヵ所にありました。開廠順にならべると以下のとおりです。

 ①【横須賀海軍工廠】横須賀鎮守府所属
・開設/1903年(明治36)11月10日
・所在地/神奈川県横須賀市
・部:造兵、造船、造機
・実験部:光学、機雷、航海、通信、電池、機関
②【呉海軍工廠】呉鎮守府所属
・開設/1903年(明治36)11月10日(同)
・所在地/広島県呉市
・部:砲熕、火工、水雷、電気、造船、造機、製鋼、潜水艦。
・実験部:砲熕、魚雷、電気、製鋼。
③【佐世保海軍工廠】佐世保鎮守府所属
・開設/1903年(明治36)11月10日(同)
・所在地/長崎県佐世保市
・部:造兵、航空機、造船、造機。
④【舞鶴海軍工廠】舞鶴鎮守府所属
・開設/1903年(明治36)11月10日。1923年(大正12)4月1日工作部へ。1936年(昭和11)7月1日再設置。
・所在地/京都府舞鶴市
・部:造兵、造船、造機、実験部:機関

⑤【広海軍工廠】呉鎮守府所属
・開設/1920年(大正9)8月1日呉海軍工廠広支廠として発足。1923年(同12)4月1日開設。
・所在地/広島県呉市
・部:航空機、造機。
・実験部:機関、工作機械。

⑥【豊川海軍工廠】横須賀鎮守府所属
・開設/1939年(昭和14)12月15日
・所在地/愛知県豊川市
・部:機銃、火工、光学

⑦【光海軍工廠】(呉鎮守府所属)
・創設/1940年(昭和15)10月1日
・所在地/山口県光市
・構成/砲熕、水雷、製鋼

⑧【相模海軍工廠】(横須賀鎮守府所属)
・開設/1943年(昭和18)5月1日。化学実験部の前身は海軍技術研究所化学研究部(1934年〈昭和9〉4月)。化学研究部の前身は海軍科学研究部化学兵器研究室平塚出張所(1930年〈昭和5〉開設)。
・所在地/火工部:神奈川県高座郡寒川町
化学実験部:神奈川県平塚市
⑨【川棚海軍工廠】(佐世保鎮守府所属)
・開設/1943年(昭和18)5月1日
・所在地/長崎県東彼杵郡川棚町
・主要業務/航空機用魚雷製造

⑩【鈴鹿海軍工廠】(横須賀鎮守府所属)
・開設/昭和18年6月1日
・所在地/三重県鈴鹿市
・主要業務/機銃の造修、火工
⑪【沼津海軍工廠】(横須賀鎮守府所属)
・開設/昭和18年6月1日
・所在地/静岡県沼津市
・主要業務/無線兵器、航空無線兵器の造修

⑫【多賀城海軍工廠】(横須賀鎮守府所属)
・開設/昭和18年10月1日
・宮城県宮城郡多賀城村(現多賀城市)
・構成/機銃、火工。

⑬【高座海軍工廠】(横須賀鎮守府所属)
・開設/昭和19年4月1日、海軍航空技術廠相模野出張所(昭和18年5月1日開設)を改編。
・所在地/神奈川県高座郡相模原町(現座間市、同大和市)
・主要業務/航空機の生産
⑭【津海軍工廠】(横須賀鎮守府所属)
・開設/昭和19年4月1日、海軍航空技術廠三重出張所(昭和17年3月15日設置)を改編。
・所在地/三重県津市
・主要業務/発動機、プロペラの生産

「豊川海軍工廠」は「多賀城海軍工廠」の先輩格になります。


「海軍工廠」とは何か

◆「海軍工廠」のもっとも簡潔な定義は「海軍の直轄兵器工場」です。陸軍は、太平洋戦争時、直轄兵器工場を「原ノ町陸軍造幣廠」というように「〇〇造兵廠」と呼んでいましたので、この時期の「工廠」は海軍用語と言ってよいと思います。「廠」の字には「大きな建物」「作業場」という意味があり、住家には使わない字ですが、わが国では陸海軍以外に使用された例を知りません。
◆海軍工廠はその名前からして海軍の施設らしいことは推測がつきます。海軍は、陸軍とならび戦前の大日本帝国軍隊を構成し、軍政をつかさどる海軍省(トップは海軍大臣)と軍令(情報収集、作戦立案、演習、戦闘の指揮)をつかさどる軍令部(同総長)で構成されていました。
◆海軍工廠は「海軍工廠令」により必ず海軍の鎮守府に所属することになっていました。鎮守府とは海軍の地方機関で、わが国と周辺海域を分担して防衛しかつ軍政を担い、海軍省と軍令部双方の指揮下にありました。鎮守府は横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4ヵ所に置かれていました(舞鶴は一旦廃止された後、昭和期に再設置されました)。多賀城海軍工廠が所属していたのは、樺太から東海、南洋諸島まで管轄していた横須賀鎮守府です。

多賀城にとっての「多賀城海軍工廠」の位置



◆「多賀城」村は、1889年(明治22)、宮城郡内13ヵ村(市川、浮島、大代、笠神、下馬、山王、高崎、高橋、留ヶ谷、南宮、新田、東田中、八幡)が合併し誕生しました。以後1951年に町制、1971年に市制施行。東西7.8キロ、南北4.2キロ(面積19.65k㎡)に63,000人が住んでおり、人口密度は塩竈市に次ぎ東北第2位になっています。
◆村名「多賀城」は、奈良・平安時代に陸奥国府が設置されておりその城柵名が「多賀城」と呼称されていたことから採用されたものです。「多賀城」は724年に大野東人により創建されました。785年には多賀城にて大伴家持が亡くなっています。発掘調査により、平安時代には碁盤の目状に街並が形成されていたことが解かっており、869年には大地震が発生、津波により1,000人が死亡したという記録が残っています(貞観大地震『日本三大実録』所収)。この痕跡は発掘調査でも確認されています。今回の東日本大震災は869年の「貞観の大津波」以来の大災害となりました。源頼朝は、1189年の「文治5年奥州合戦」の際、平泉への行きかえりに多賀国府に立寄っていますが、その時期の場所はわかっていません。しかし、多賀城跡からそれほど遠くない所に引き続き国府機能を備える施設があったと考えられています。1333年には後醍醐政権が陸奥幕府を開設。1400年以降は奥州の中心地が大崎に移り、多賀城周辺は純農村となりました。1689年に松尾芭蕉が多賀城を訪れています。かつての都の面影がないなか、唯一いにしえの繁栄を示す「壺の碑」に芭蕉は「疑いなき千歳の記念」と泪しています。
◆この純農村多賀城に人口急増の転機が訪れたのは、1942年から始まった多賀城海軍工廠の造営でした(下図参照)。同工廠は実に多賀城村域約20k㎡の4分の1、496㌶に達し、これが今日の多賀城市の街並みの原型となっています。したがって海軍工廠ぬきに多賀城を語ることはできません。戦後、工廠跡は米進駐軍のキャンプ地となり、のち工業団地、公務員官舎、自衛隊駐屯地、東北学院大工学部キャンパス等になっています。
◆以上から私は、「多賀城海軍工廠」造営は陸奥国府設置とならび本市の「歴史上の2大事件」と規定しています。

戦時下の多賀城・松島…。戦争遺跡の保存を。

Ⅳ.連日の空襲と海軍の特攻作戦

(1)多賀城国民学校日誌に記されたグラマン空襲【19p】

(2)最後まで戦おうとした陸海軍部―石巻湾での海軍の特攻作戦【20p】

Ⅴ.戦争遺跡の保存を

(1)県内の他の旧海軍遺跡
◇海軍第1火薬廠(船岡火薬廠)。三門山高射砲台跡。
◇海軍松島航空基地(現航空自衛隊松島基地)および地下司令部跡(鳴瀬町牛網)
◇特別攻撃隊「震洋」「海龍」「蛟龍」の出撃基地(宮戸、荻浜等)【20p】

(2)戦争遺跡は平和の語り部
◇戦争遺跡は①歴史の研究対象、②生涯学習の教材、③平和の語り部。
◇1995年に文化財保護法が改正。戦争遺跡が文化財として指定保存管理の道が。
◇機銃部試射場跡、火工部土塁・建物跡、引込線跡、松島地区等の保存を。

Ⅵ 憲法9条を守り平和な日本を!

                  (以上)

ようやくわかった「多賀城海軍工廠」「松島地区」

(1)ようやく解明できた「多賀城海軍工廠松島地区」

「松島町高城に地下工廠があった」ということは地元のあいだではささやかれてきた。まず調査に着手したのは宮城歴史教育者協議会の先生方であった。しかしその全体像は明らかになっていなかった。といのは図面の存在が明らかでなかったからである。「くらしと民主主義、史跡・緑をまもる多賀城懇話会」(略称「多賀城懇話会」大村武平代表)は多賀城海軍工廠開設60年にあたる2003年に「多賀城海軍工廠展」を実施することにし調査に乗り出した。中心になったのは私であったが、その過程で中川正人先生から資料を提供していただいた。その中に海軍の残務処理にあたっていた「第二復員省」から米占領軍への「『多賀城海軍工廠松島地区』引渡目録(図面付)」が含まれていた。青焼をコピーしたものだったので全体真っ黒であったが、幸い高城川と東北本線(昭和19年11月15日に海岸周り開通)は確認でき、地下工廠は尾根を利用していることがわかった。それをとりあえず住宅地図のコピーに落とし、現地調査を繰り返した。地図を松島町から購入し制度は徐々に高まっていった。その成果が以下に示す、藤原作成の図面である。これによって「多賀城海軍工廠松島地区」の全容が初めて明らかになり、関係者から注目されるようになった。




(2)なぜ松島地下工廠が造られたのか

◆軍事的背景

全体像を以下に示すが、その前に「なぜ松島に地下工廠が造られたのか」明らかにしたい。
横須賀海軍施設部が松島地下工廠に着手したのは昭和19年の秋であった。元校長の長南親雄氏は「工事のために明神橋が拡幅されることになり、東側のたもとに住んでいたわが家が立ち退きになったのでよく覚えている」と証言する。
昭和19年秋はどういう情勢であったか。19年7月、サイパン島が陥落し以後本土空襲が繰り返されるようになった。その中で大本営本部は本土決戦の準備に移行、全国の軍事施設を地下に潜るよう指示をだした。
例えば、「松代大本営」跡は超有名であるが、19年10月4日に「マ(10・4)工事」として命令が下され、舞鶴山に初発破がかけられたのは11月11日11時11分であった。
慶応大学日吉校舎の地下に「連合艦隊司令部」壕が造られたが、着工は19年8月15日で、第3010設営隊(1,500名の大型設営隊)が工事の中心となった。
沖縄県豊見城には「海軍沖縄方面根拠地隊地下司令部」が造られた。着工は19年8月である。
沖縄県首里城下には「沖縄守備軍」=「第32軍」「地下指令部」壕が造られた。着工は19年12月である。
こういう時期に松島地下工廠も着手された。すなわち、樺太から台湾まで、ありとあらゆる軍事施設が地下に潜ることになったのだが、多賀城海軍工廠もその一環として地下工廠をつくることになった。

◆地理的要請

「多賀城海軍工廠」の地下工廠なので」あるから、多賀城からそれほど離れるわけにはいかない。おそらく、多賀城の山(丘)は低すぎ、塩竈はすでに人口密集地となっていたため敬遠され、利府町は砂地のために除外され松島になったものと思われる。

◆造成を担った人々
「松島地区」建設の指揮にあたったのは当然「横須賀海軍施設部」であったろう。建設に当たった人たちは「多賀城地区」同様、朝鮮人徴用工員、タコ部屋の人たちであった。元町議相沢佐和子さんは「飯場は現松島高校付近にあった」と証言している。おそらく国有地を宮城県が買い取り松島高校を開設したのだろう。
注意を要することは人夫は相当強引に集められたであろうことである。戦争に駆り出され、国内には男子青壮年はいない。こうした中、全国で軍事施設の地下化が図られたのであるから、相当強引に、強制的に集められたであろうことは容易に想像できる。私には松島地下工廠跡に残るつるはしの跡は、働いた人たちの悲鳴の爪痕に見える。


(3)「松島地区」の概要

(4)「松島地区」「南区」(松島地下工廠機銃部)の全体像



(5)「多賀城海軍工廠松島地区北区」図面





(4)松島では部品製造のみ、組み立ては多賀城で。多賀城~高城間はトラック輸送。



(5)動員学徒(旧制古川中黒羽武蔵さん)の証言(『多賀城海軍工廠 中学生たちの戦争19ヶ月のものがたり』より)【17~18p】

「多賀城海軍工廠」「多賀城地区」の施設概要

◆『多賀城海軍工廠引渡目録』(写し)










◆多賀城海軍工廠多賀城地区建物配置図

2011年11月14日月曜日

なぜ多賀城に「海軍工廠」が造られたのか。

◆軍事的要請

  昭和10年前後、戦闘機の機銃(海軍の呼び名。陸軍は機関銃)は7.7ミリが主流でしたが、世界ではすでに20ミリ機銃も出始めていました。海軍は次期戦闘機には20ミリ機銃を搭載する方針を固め世界各地を調査。採用したのは軽くて衝撃の少ないエリコン社(スイス)製の20ミリ機銃でした。
【写真上】ゼロ戦の翼に装着されていた20㍉機銃(呉市海事博物館にて)。
【写真下】ゼロ戦に装着されていた20㍉機銃(同)。
  他方海軍は昭和12年5月、次期戦闘機(「十二試艦上戦闘機」)の計画要求書を三菱・中島両者に示しましたが、その要求の高さに中島は断念、試作は三菱が引き受けることになりました。試作1号機は昭和14年3月、三菱重工業名古屋航空機製作所の手により作成されました。1,000馬力という小型のエンジンでありながら軽く小回りがきき、航続距離が長くかつ攻撃能力も高いこの戦闘機は優秀さが認められ、昭和15年7月、海軍から制式採用され、この年が「皇紀2,600年」にあたるということから「零式艦上戦闘機」略して「ゼロ戦」と名づけられました。以後「ゼロ戦」は増産に次ぐ増産で、終戦までの総生産数は1万425機にいたりました。
この「ゼロ戦」の翼部分に搭載されたのがエリコン社製の20ミリ機銃でした。当初、20ミリ機銃と弾丸生産を担っていたのは民間の「浦賀船渠」(のちの大日本兵器(株))でしたが、需要に追いつかず、豊川海軍工廠でも生産を始め、鈴鹿での生産計画もたてられました(結果的に鈴鹿では生産されなかった模様です)。それでも20ミリ機銃の生産は需要に追いつかず、新たな海軍工廠の増設が検討されました。以上が多賀城海軍工廠が造られるに至った軍事的要請です。(詳しくは朝日ソノラマ刊、堀越二郎・奥宮正武著『零戦―日本海軍航空小史』をご参照ください)
◆多賀城の地の利
20ミリ機銃生産と弾丸・爆弾製造の海軍工廠を多賀城に選定した理由について、当時海軍の軍務局第1課長で工廠用地選定の担当者だった保科善四郎は①背後に塩釜港がひかえ、鉄道も東北本線と仙石線の2本が通過。国道も通っており「交通の便が良い」。②土地が安い。③東北には豊富で忍耐強く優秀な労働力がある④近くに海軍船岡火薬廠がある、等をあげています(『多賀城市史』第5巻p762~765)。
他の海軍工廠を見ても、海岸沿いにあり、海・陸ともに交通の便が良く、大都市近郊にある等が共通しています。仙台近郊に造ったのも労働力確保の観点からと思われます。
また海軍工廠の所在地には、鈴鹿(伊勢)・豊川(参河)など多賀城の他にも古代の国府や国分寺が置かれてところが少なくなくありません。古代においても政治・経済・交通の要衝であった地が海軍工廠用地として選ばれている点は興味深いところです。