2011年11月14日月曜日

なぜ多賀城に「海軍工廠」が造られたのか。

◆軍事的要請

  昭和10年前後、戦闘機の機銃(海軍の呼び名。陸軍は機関銃)は7.7ミリが主流でしたが、世界ではすでに20ミリ機銃も出始めていました。海軍は次期戦闘機には20ミリ機銃を搭載する方針を固め世界各地を調査。採用したのは軽くて衝撃の少ないエリコン社(スイス)製の20ミリ機銃でした。
【写真上】ゼロ戦の翼に装着されていた20㍉機銃(呉市海事博物館にて)。
【写真下】ゼロ戦に装着されていた20㍉機銃(同)。
  他方海軍は昭和12年5月、次期戦闘機(「十二試艦上戦闘機」)の計画要求書を三菱・中島両者に示しましたが、その要求の高さに中島は断念、試作は三菱が引き受けることになりました。試作1号機は昭和14年3月、三菱重工業名古屋航空機製作所の手により作成されました。1,000馬力という小型のエンジンでありながら軽く小回りがきき、航続距離が長くかつ攻撃能力も高いこの戦闘機は優秀さが認められ、昭和15年7月、海軍から制式採用され、この年が「皇紀2,600年」にあたるということから「零式艦上戦闘機」略して「ゼロ戦」と名づけられました。以後「ゼロ戦」は増産に次ぐ増産で、終戦までの総生産数は1万425機にいたりました。
この「ゼロ戦」の翼部分に搭載されたのがエリコン社製の20ミリ機銃でした。当初、20ミリ機銃と弾丸生産を担っていたのは民間の「浦賀船渠」(のちの大日本兵器(株))でしたが、需要に追いつかず、豊川海軍工廠でも生産を始め、鈴鹿での生産計画もたてられました(結果的に鈴鹿では生産されなかった模様です)。それでも20ミリ機銃の生産は需要に追いつかず、新たな海軍工廠の増設が検討されました。以上が多賀城海軍工廠が造られるに至った軍事的要請です。(詳しくは朝日ソノラマ刊、堀越二郎・奥宮正武著『零戦―日本海軍航空小史』をご参照ください)
◆多賀城の地の利
20ミリ機銃生産と弾丸・爆弾製造の海軍工廠を多賀城に選定した理由について、当時海軍の軍務局第1課長で工廠用地選定の担当者だった保科善四郎は①背後に塩釜港がひかえ、鉄道も東北本線と仙石線の2本が通過。国道も通っており「交通の便が良い」。②土地が安い。③東北には豊富で忍耐強く優秀な労働力がある④近くに海軍船岡火薬廠がある、等をあげています(『多賀城市史』第5巻p762~765)。
他の海軍工廠を見ても、海岸沿いにあり、海・陸ともに交通の便が良く、大都市近郊にある等が共通しています。仙台近郊に造ったのも労働力確保の観点からと思われます。
また海軍工廠の所在地には、鈴鹿(伊勢)・豊川(参河)など多賀城の他にも古代の国府や国分寺が置かれてところが少なくなくありません。古代においても政治・経済・交通の要衝であった地が海軍工廠用地として選ばれている点は興味深いところです。

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