【写真上】大代の橋本にあった「朝鮮人徴用工員宿舎」の全景。正しくは「横須賀海軍施設部多賀城工員宿舎」という。「海軍工廠施設部」と解説しているものもあるが、「施設部」は「海軍工廠」ではなく「横須賀海軍」の部署である。また「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」は大代元船場にあった(多賀城海軍工廠を造った「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」参照)。また「多賀城海軍工廠機銃部」と解説している例もあるがそれも誤解である。
昭和18年9月22日、「横須賀海軍施設部多賀城工員宿舎」舎監の佐藤三郎は工員慰安のために横綱照国の巡業を行った。2枚の写真を見比べると、土俵や宿舎の配置等から同じ施設であることがわかる。
~照国関の苦労の生涯をお知らせ致します~
返信削除大相撲が年2場所の時代、史上最年少の23歳4カ月で横綱になったのが、秋田県湯沢市秋ノ宮出身の照国万蔵だ。(秋ノ宮は、秋田と宮城の県境にある村なので、この地名が付きました)入幕後、わずか3年。7場所で横綱になった。しかも69連勝を達成した無敵の横綱双葉山と5回対戦し、3勝2敗。全盛期の双葉山が、同じ相手に3敗したのは照国だけだ。地方巡業でも双葉山は照国に敗れた。照国は全盛期の双葉山に一歩も引かず、堂々と打ち負かした。生まれも育ちも秋田の若武者が、天下一の双葉山を土俵中央に転がしたのだ。照国の活躍に、地元は大いにわいた。
照国の体は柔軟で、テンポよく動き、取り口もリズミカル。餅のような色白の肌が、相撲を取るたびに桜色に染まった。その様子は「桜色の音楽」と形容された。観衆は照国に酔いしれた。まさに「絵になる相撲」だ。人気の点では双葉山をしのぐほどで、誰もが愛する時代のヒーローだった。
「相撲の天才」とも呼ばれた。土俵に腹がつくほどの低い立ち合いから相手を攻めた。低く攻められた相手ははたくが、照国は前に落ちない。子どもの頃、蚕の餌になる桑の葉っぱを朝夕、山に採りに行った苦労が強靱な足腰を育んだのだ。前さばきがうまく、差せば重心の低い吊りや寄りをした。自分よりはるかに長身の相手が高々と宙に浮いた。
横綱在位、満10年。幕内通算成績271勝91敗。関取勝率74・2%は歴代7位。三役になってからの勝率は双葉山の86・7%に次ぐ81・3%で歴代2位。強い横綱だ。だが照国は、もともと勝負師ではなかった。争いを好まず、内気で温厚な人柄。力士になるのを嫌い、時間があれば勉強したり、読書するおとなしい少年だった。
そんな照国が、父の急死や兄の出征など家族の悲運を乗り越えるため、あえて相撲取りの道に進んだ。自分が堪え忍び、母と弟たちを窮地から救おうとしたのだ。息子を不憫に思う母は猛反対したが、照国は泣いて故郷を後にした。
だが優しすぎる照国は駆け出しの頃、相撲が弱く、「力士としてやっていくのは無理だ」と親方に破門された。両国橋で途方に暮れて泣いていた照国に手を差し伸べ、家族のように温かく育ててくれたのが、同郷の幡瀬川だった。故郷の母は照国を祈り、わが身に井戸水を浴びる過酷な「願掛け」を行った。「万蔵を救ってけれ。おらの寿命を縮めてもいいから」と寒中でも体に水をかぶった。照国が大病を患って危篤になった時も、母は一心不乱に看病し息子を救った。
だが苦労しすぎた母は若くして逝った。照国は「あばぁ。あばぁ」と、亡き母を叫びながら泣いて相撲を取った。病気やケガに苦しみながらも、母を支えに必死に踏ん張り、連続優勝を果たした。照国は故郷の母や家族を支えに、必死に人生を駆け抜けたのだった。照国は語っている。「故郷にいた時が一番の幸せだった」と。貧しくても家族睦まじく、百姓しながら暮らした少年の日が忘れられなかったという。参考…秋田魁新報「秋田が生んだ横綱照国物語」
照國を愛するファンの方へ
返信削除素晴らしいお話をありがとうございます。小生には、ラジオから流れる「横綱照國」という四股名に、かすかな記憶があります。
当時は羽黒山、名寄岩など立浪勢を応援していたため、照國に思いをいたすことはありませんでしたが、この文章を目にし、目頭に熱いものを感じました。
最近、照國と東富士両横綱による優勝を決する千秋楽取り組みのフィルムを見る機会がありましたが、ここに書かれているとおり、低い立合から鋭く懐に飛び込み、大きな東富士を一気に土俵外に寄り切る勝負でした。もちろんそれで優勝決定でした。
蛇足ながら、ここに書き込まずにはいられませんでした。藤原益栄議員には申し訳ありませんでした。
心温まるコメントありがとうござます。秋田魁新報に連載された『横綱照国物語』が小さな本になりました。本屋さんで立ち読みしていただけたら大変嬉しいです。無明舎出版 info@mumyosha.co.jp phone:018-832-5680 fax:018-832-5137
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