(1)ようやく解明できた「多賀城海軍工廠松島地区」
「松島町高城に地下工廠があった」ということは地元のあいだではささやかれてきた。まず調査に着手したのは宮城歴史教育者協議会の先生方であった。しかしその全体像は明らかになっていなかった。といのは図面の存在が明らかでなかったからである。「くらしと民主主義、史跡・緑をまもる多賀城懇話会」(略称「多賀城懇話会」大村武平代表)は多賀城海軍工廠開設60年にあたる2003年に「多賀城海軍工廠展」を実施することにし調査に乗り出した。中心になったのは私であったが、その過程で中川正人先生から資料を提供していただいた。その中に海軍の残務処理にあたっていた「第二復員省」から米占領軍への「『多賀城海軍工廠松島地区』引渡目録(図面付)」が含まれていた。青焼をコピーしたものだったので全体真っ黒であったが、幸い高城川と東北本線(昭和19年11月15日に海岸周り開通)は確認でき、地下工廠は尾根を利用していることがわかった。それをとりあえず住宅地図のコピーに落とし、現地調査を繰り返した。地図を松島町から購入し制度は徐々に高まっていった。その成果が以下に示す、藤原作成の図面である。これによって「多賀城海軍工廠松島地区」の全容が初めて明らかになり、関係者から注目されるようになった。
(2)なぜ松島地下工廠が造られたのか
◆軍事的背景
全体像を以下に示すが、その前に「なぜ松島に地下工廠が造られたのか」明らかにしたい。
横須賀海軍施設部が松島地下工廠に着手したのは昭和19年の秋であった。元校長の長南親雄氏は「工事のために明神橋が拡幅されることになり、東側のたもとに住んでいたわが家が立ち退きになったのでよく覚えている」と証言する。
昭和19年秋はどういう情勢であったか。19年7月、サイパン島が陥落し以後本土空襲が繰り返されるようになった。その中で大本営本部は本土決戦の準備に移行、全国の軍事施設を地下に潜るよう指示をだした。
例えば、「松代大本営」跡は超有名であるが、19年10月4日に「マ(10・4)工事」として命令が下され、舞鶴山に初発破がかけられたのは11月11日11時11分であった。
慶応大学日吉校舎の地下に「連合艦隊司令部」壕が造られたが、着工は19年8月15日で、第3010設営隊(1,500名の大型設営隊)が工事の中心となった。
沖縄県豊見城には「海軍沖縄方面根拠地隊地下司令部」が造られた。着工は19年8月である。
沖縄県首里城下には「沖縄守備軍」=「第32軍」「地下指令部」壕が造られた。着工は19年12月である。
こういう時期に松島地下工廠も着手された。すなわち、樺太から台湾まで、ありとあらゆる軍事施設が地下に潜ることになったのだが、多賀城海軍工廠もその一環として地下工廠をつくることになった。
◆地理的要請
「多賀城海軍工廠」の地下工廠なので」あるから、多賀城からそれほど離れるわけにはいかない。おそらく、多賀城の山(丘)は低すぎ、塩竈はすでに人口密集地となっていたため敬遠され、利府町は砂地のために除外され松島になったものと思われる。
◆造成を担った人々
「松島地区」建設の指揮にあたったのは当然「横須賀海軍施設部」であったろう。建設に当たった人たちは「多賀城地区」同様、朝鮮人徴用工員、タコ部屋の人たちであった。元町議相沢佐和子さんは「飯場は現松島高校付近にあった」と証言している。おそらく国有地を宮城県が買い取り松島高校を開設したのだろう。
注意を要することは人夫は相当強引に集められたであろうことである。戦争に駆り出され、国内には男子青壮年はいない。こうした中、全国で軍事施設の地下化が図られたのであるから、相当強引に、強制的に集められたであろうことは容易に想像できる。私には松島地下工廠跡に残るつるはしの跡は、働いた人たちの悲鳴の爪痕に見える。
(3)「松島地区」の概要
(4)「松島地区」「南区」(松島地下工廠機銃部)の全体像
(5)「多賀城海軍工廠松島地区北区」図面
(4)松島では部品製造のみ、組み立ては多賀城で。多賀城~高城間はトラック輸送。
(5)動員学徒(旧制古川中黒羽武蔵さん)の証言(『多賀城海軍工廠 中学生たちの戦争19ヶ月のものがたり』より)【17~18p】
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