2011年11月26日土曜日

多賀城海軍工廠を造った「横須賀海軍施設部多賀城工事事務所」


【写真上】昭和9年にその大部分を坂定義(現坂総合病院初代院長)が寄附をして建てられた「報恩文武道場」前での皇紀2600年を記念しての写真。1940年11月か。道場の北西方向に銀杏の大木が、西方向に旧「西園寺」の庫裏が見える。左手の建物は応接室として使用され、右手建物は玄関奥が柔道場として、右手奥が剣道場として使用され、奥には神棚があったという。写真中央に坂猶興医師(現坂総合病院2代目院長)の顔が見え、道場建設の際、坂家が果たした役割の高さが伺える。左隣は赤松元多賀城尋常高等小学校校長。この時期平日の日中は、柔道・剣道両道場を多賀城国民学校の初等科3年生女子50名が教室として使用していた。横須賀海軍建築部多賀城工事仮事務所は昭和17年5月、「報恩文武道場」の応接室に置かれ、事務所完成後、大代船場に移転した。(写真提供:板橋正晃氏)




【写真上】横須賀海軍施設部による多賀城海軍工廠竣工式記念写真(昭和18年10月30日):多賀城海軍工廠の用地造成と建築作業は横須賀海軍建築部(のち施設部)が発注・指揮した。昭和17年5月、仮事務所は西園寺境内の「報恩文武道場」応接室(玄関左側の部屋)に置かれ、大代元船場に移転した。「建築部」は昭和18年8月「施設部」と改称。海軍工廠令、工員手帳などから多賀城海軍工廠の開設は翌18年10月1日であることがわる。同月30日に横須賀海軍施設部により多賀城海軍工廠竣工式が行われた。多賀城海軍工廠造設工事は基本的に終了したということだが、皮肉にも12月11日に火工部の大爆発が発生。施設部の仕事は終戦まで続いた。




【写真上】この写真は昭和30年ころのもの。多賀城工事事務所をはじめ倉庫群・資材置場等、横須賀海軍施設部関係の施設は大代地区に集中していた。塩釜港で建築資材を荷揚げし貞山運河で大代まで運ぶという地理上の配置と思われる。南北に走っているのが貞山運河、西から流れて来るのが砂押川。砂押川を北に渡り右折、その南側にある大きな建物が多賀城工事事務所である。現在、横須賀海軍施設部の諸施設が設置されていた用地の大半は、緩衝緑地公園と流域下水道用地となっている。

多賀城海軍工廠の用地造成にあたる工員の宿舎も大代に集中していた。写真上は大代橋本にあった朝鮮人徴用工員宿舎での写真。貞山運河を渡り、北側にあった大きな建物。同工員は順国家公務員扱いで、宿舎の名は「横須賀海軍施設部多賀城工員宿舎」と呼ばれていた。




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