2011年11月23日水曜日

多賀城にとっての「多賀城海軍工廠」の位置



◆「多賀城」村は、1889年(明治22)、宮城郡内13ヵ村(市川、浮島、大代、笠神、下馬、山王、高崎、高橋、留ヶ谷、南宮、新田、東田中、八幡)が合併し誕生しました。以後1951年に町制、1971年に市制施行。東西7.8キロ、南北4.2キロ(面積19.65k㎡)に63,000人が住んでおり、人口密度は塩竈市に次ぎ東北第2位になっています。
◆村名「多賀城」は、奈良・平安時代に陸奥国府が設置されておりその城柵名が「多賀城」と呼称されていたことから採用されたものです。「多賀城」は724年に大野東人により創建されました。785年には多賀城にて大伴家持が亡くなっています。発掘調査により、平安時代には碁盤の目状に街並が形成されていたことが解かっており、869年には大地震が発生、津波により1,000人が死亡したという記録が残っています(貞観大地震『日本三大実録』所収)。この痕跡は発掘調査でも確認されています。今回の東日本大震災は869年の「貞観の大津波」以来の大災害となりました。源頼朝は、1189年の「文治5年奥州合戦」の際、平泉への行きかえりに多賀国府に立寄っていますが、その時期の場所はわかっていません。しかし、多賀城跡からそれほど遠くない所に引き続き国府機能を備える施設があったと考えられています。1333年には後醍醐政権が陸奥幕府を開設。1400年以降は奥州の中心地が大崎に移り、多賀城周辺は純農村となりました。1689年に松尾芭蕉が多賀城を訪れています。かつての都の面影がないなか、唯一いにしえの繁栄を示す「壺の碑」に芭蕉は「疑いなき千歳の記念」と泪しています。
◆この純農村多賀城に人口急増の転機が訪れたのは、1942年から始まった多賀城海軍工廠の造営でした(下図参照)。同工廠は実に多賀城村域約20k㎡の4分の1、496㌶に達し、これが今日の多賀城市の街並みの原型となっています。したがって海軍工廠ぬきに多賀城を語ることはできません。戦後、工廠跡は米進駐軍のキャンプ地となり、のち工業団地、公務員官舎、自衛隊駐屯地、東北学院大工学部キャンパス等になっています。
◆以上から私は、「多賀城海軍工廠」造営は陸奥国府設置とならび本市の「歴史上の2大事件」と規定しています。

0 件のコメント:

コメントを投稿