2013年1月28日月曜日

『図説 多賀城海軍工廠』を発行――藤原益栄市議に聞きました。

 
 
 
 
◆新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
【藤原】よろしくお願いいたします。
◆さて、『図説 多賀城海軍工廠』を「くらしと民主主義、史跡・緑を守る多賀城懇話会」(略称「多賀城懇話会」大村武平代表)から発刊されたのは11月初めでしたね。6日には『河北新報』でも紹介され、大変な反響だったとうかがいました。
【藤原】6日から8日にかけ、多賀城懇話会事務局長の阿部さんのお宅に2百数十件もの電話がはいりました。待たれていたということを実感しますし、想像を超える反響に私も驚いています。
◆なぜ今の時期の発行かということですが…。
【藤原】昨年4月13日は多賀城懇話会結成10周年でした。また昨年6月4日は多賀城海軍工廠用地強制買収70周年でしたし、今年10月1日は開廠70周年にあたっています。それで多賀城懇話会が結成10周年事業として『図説 多賀城海軍工廠』発刊を位置付け、私が執筆を担当することになったという次第です。
◆『海軍工廠』とは何か、ご存じない方もいらっしゃると思いますし、懇話会あるいは藤原さんがなぜこんなに『多賀城海軍工廠』にこだわるのか、という点ですが…。
【藤原】海軍工廠とは海軍の直轄兵器工場のことで、全国14ヵ所にありました。私どもが多賀城海軍工廠にこだわるのは、「今日の多賀城の原型は海軍工廠によってつくられた」という認識からです。たとえば、多賀城の工場地帯は多賀城工廠の機銃部跡ですし、自衛隊駐屯地や丸山公務員官舎は火工部跡です。多賀城中学校は女子工員宿舎跡、多賀城公園・天真小学校は幹部の遊技場跡です。東北学院大学工学部・旭ヶ岡の自衛隊官舎は男子工員寄宿舎・工員養成所跡です。
◆「今日の多賀城の原型は海軍工廠」という意味がよくわかりました。ところで多賀城海軍工廠に興味をもったきっかけは何だったんですか。
【藤原】私は1975年4月に東北学院大学工学部に入学し明月二丁目に住んでいました。卒業と同時に居を留ヶ谷に移し、1983年4月に市議に当選させていただきました。工学部も明月も工廠と関係がある。そして議員になって様々な方から教えていただき徐々に「多賀城は海軍工廠ぬきに語れない」と思うようになりました。
◆興味をお持ちになるということと、このような調査研究をされることには一定の飛躍があるように思えるのですが…。
【藤原】実は「自分がやらなければ誰もしないかもしれない」と思うことがあったのです。本市の近現代史の通史である『多賀城市史』第二巻が発刊されたのは1993年3月で、ただちに読みました。この巻に収録された中川正人先生執筆の「戦争と多賀城」は非常にすばらしいものでした。同時に課題も明らかになりました。たとえば、機銃部を造るために移転を強制された八幡沖区の方々の証言はありましたが、火工部のために移転を強要された笠神の方々の証言はまったくありませんでした。また、昭和20年4月から多賀城工廠の約半分が松島・高城の地下に移ったのですがそれも全く触れられていない。東北本線の海岸廻工事も触れられていない。
 それで私は1994年の12月議会の一般質問で「来年は終戦50周年。まだまだ未解明の分野がある」として先の点を指摘しつつ「市史編纂室の体制を崩さず引き続き資料収集と調査研究を」と主張しました。答弁は「これ以上資料は集まらない。市史編纂室も解散する」というものでした。この答弁を聞いて「これは自分がやる以外ないな」と思ったのです。ですから自らの課題としてハッキリと意識したのは18年前ということになります。
◆それにしてもよくこれだけ資料を集めることができましたね。
【藤原】資料収集の第一のピークは1998年に発刊した『多賀城小学校の百二十五年』の編集過程でした。多賀城小学校の「学校日誌」で多くのことが解明されましたし、朝鮮人徴用工員宿舎等の写真も集まりました。
 二つ目に、2002年に多賀城懇話会が結成され、2003年11月に図書館で「造営から60年―目で見る多賀城海軍工廠展」を開催しました。この時、中川正人先生から市史執筆の際使用した資料の提供を受けました。この資料により松島地下工廠の全容も明らかにすることができました。
 三つ目に、この9年の間も多賀城懇話会として、工廠跡ツアーや語る会等を取り組んできました。その中で徐々に徐々に資料が集まってきました。市の職員からも資料提供をいただきました。
◆『図説』の特徴を簡単にご紹介ください。
【藤原】第一は、多くの写真と図版を用い(カラーが38ページ)、多賀城海軍工廠の全体像をわかりやすく解説していることです。海軍工廠とはなにか、多賀城になぜ造られたか、多賀城と松島の施設概要、そこで何を作っていたか、強制買収と強制移転の様子、造成のための強制労働の実態、戦後の土地利用等トータルに理解することができます。
 第二に、まったくオリジナルな証言が収録されています。特に女子挺身隊として多賀城工廠で働いていた赤間春子さんの手記は圧巻です。
 第三に、多賀城海軍工廠の開設日や火工部爆発での犠牲者数などの新たな解明もあり、また詳細な年表も作成し掲載しています。
 手にしていただければ「これで千円?安い!」と思っていただけるはずです。
◆どうやれば入手できるのですか。
【藤原】お知り合いの市議さんに頼んでください。「ブックスなにわ」多賀城店でも扱っています。
◆今日はありがとうございました。
【藤原】こちらこそどうもありがとうございました。(『多賀城民報』2013年1月18日より)

2012年3月13日火曜日

あいつぐグラマン空襲――多賀城国民学校の日誌から

  「多賀城国民学校」(現多賀城小学校)の日誌が忠実に記念誌『多賀城小学校の百二十五年』に掲載されており、以下の「警戒警報」「空襲警報」が記録されています。なぜこれほどの警報が発令されたか?多賀城海軍工廠の存在抜きには考えることができません。

《昭和19年》
・5/20 pm6:50警戒警報発令。
・5/21 警戒警報発令中につき宿直増員。
・6/16、17、19 警戒警報発令。
・8/5 空襲警報発令。
《昭和20年》
・2/6 空襲警報発令につき児童退避せしむ。
・2/7 命により初等科3年以下児童出校停止。am10: 30、警戒警報発令につき下校せしむ。
・2/27 9:20警戒警報発令。
・4/12 警戒警報・空襲警報発令。
・4/13 警戒警報発令。
・4/22 空襲警報発令(8:20~8:50)。
・5/11 警戒警報発令(9:15~10:19)。
・5/13 警戒警報発令(13:00)。
・5/25 警戒警報発令(8:50~9:00)、解除後B29一 機来襲。
・6/10 警戒警報(9:00~9:26)。
・6/23 警戒警報発令(8:40~9:00)。
・6/24 警戒警報発令(0:00~1:30)。
・6/25 警戒警報発令(23:50~2:10)。
・6/27 東北北地区警戒警報発令(0:27~1:55)。
・6/28 警戒警報発令。
・6/29 警戒警報発令。敵機二機来襲。
・7/2 警戒警報発令。
・7/3 警戒警報発令(23:00)。
・7/4 警戒警報発令(1:00)。
・7/5 警戒警報発令(23:50)。
・7/6 警戒警報発令(3:00)。
・7/9 警戒警報発令(21:00)。
・7/10 空襲警報発令(0:00)。「仙台市内が爆撃さ れ相当被害ある模様なり。空襲のため校長、浜田、 朝倉、砂野先生宅焼失す」。空襲警報発令(23:00)。
・7/11 警戒警報発令(23:45~0:45)。
・7/12 警戒警報発令(23:30~1:30。一部空襲あり)。
・7/13 空襲警報発令(20:30)。
・7/14 警戒警報・空襲警報発令(5:15~23:30)。 警戒警報発令のため授業行わず職員作業を行う。
・7/15 警戒警報発令(5:30~10:45、13:35~16:05)。
・7/16 空襲警報発令(5:00)。初等科児童出校停止、 職員作業を行う。
・7/17 空襲警報発令(5:00)。初等科児童出校停止、 職員作業を行う。
・7/18 初等科児童出校停止、授業行わざる日。
・7/19 初等科・高等科児童出港停止、授業行わざる 日。
・7/20 警戒警報発令(0:00~1:30、9:20~10:30、1 2:40~13:30)。初等科・高等科児童出港停止、授 業行わざる日。
・7/24 警戒警報発令しばしばあり。
・7/25 警戒警報発令。
・7/27 警戒警報発令(20:00)。
・7/28 警戒警報発令(11:00~13:30)、空襲警報発 令(20:00~0:30)。
・7/29 警戒警報発令(9:30~11:00)。
・7/31 警戒警報発令。
・8/6 警戒警報発令(8:50~9:20、23:00)。
・8/7 警戒警報発令(22:50~11:30)。
・8/8 警戒警報発令(10:30~12:10)。
・8/9 空襲警報のために授業行わず。空襲警報発令 (5:40~17:25)。グラマンF6F五機、爆弾一発投 下。
・8/10 警戒警報発令(5:25)。空襲警報発令(5:30 ~17:30)。「敵艦載機終日来襲す。グラマンF6F 百機、爆弾16発投下。死者2名、負傷者27名」。 空襲のため授業行わず。
・8/11 空襲警報発令(11:20~11:45)。
・8/12 警戒警報発令(16:17~16:35)。
・8/13 警戒警報発令(5:15)。
・8/14 警戒警報発令(8:15、23:00、0:00)。
・8/15 警戒警報発令(7:55)につき授業行わず。  正午、玉音放送。

2012年3月11日日曜日

多賀城海軍工廠の完成品は横須賀海軍軍需部へ

    多賀城海軍工廠で製造された機銃や弾丸、爆弾等は引込線積出場から東北本線を経、横須賀海軍軍需部倉庫に運び込まれ、そこからまた「ゼロ戦」組立工場等へ送られました(機銃部勤務嶺岸儀蔵さんの証言)。横須賀軍需部の倉庫群は現在相模運輸倉庫等として使用されています。


2012年3月2日金曜日

海軍区令(大正12年3月26日勅令第56号)による鎮守府の管轄図

  「全国14ヵ所にあった海軍工廠」に記したように、海軍工廠令により各工廠は必ず鎮守府に所属することになっていた。多賀城海軍工廠は横須賀鎮守府に所属していたわけであるが、そもそもの鎮守府の管轄が何により規定されていたのか。それは海軍区令によってである。すなわち同令第1条により陸海上に第1~4の海軍区が設定され、第2条で各海軍区に軍港を置くことにし、さらに第4条で各海軍区は各軍港に置かれた鎮守府により管理されることになっていた。海軍区、軍港、鎮守府の関係は以下のごとくである。
(図は「海軍区令」〈大正12年3月26日勅令第56号〉にもとづき藤原が作成した)。






第1海軍区 管轄区域:下表のとおり 軍港:横須賀  横須賀鎮守府
第2海軍区 管轄区域:同        軍港:呉     呉鎮守府
第3海軍区 管轄区域:同        軍港:佐世保  佐世保鎮守府
第4海軍区 管轄区域:同        軍港:舞鶴    舞鶴鎮守府 















2012年2月1日水曜日

多賀城の水道の始まりは「多賀城海軍工廠」

多賀城市八幡2丁目の末の松山浄水場入口左手にある多賀城市「水道沿革碑」。同浄水場は横須賀海軍施設部が現仙台市岡田に井戸を掘り、集水した水を浄水するために造った浄水場。浄水された水はここから現多賀城高校北側にある「天の山配水池」に送水され工廠関連諸施設に給水された。上写真左にある消火栓は横須賀海軍施設部によるもので、上部に錨マークがついている。    海軍工廠造営時に造られた水道施設の所管は、米軍、防衛庁を経、多賀城市に全面移管されたのは昭和54年4月で、比較的最近のことである。









多賀城高校北側にある天の山配水池。写真は海軍工廠時の配水池を解体し、2基目の新配水池を造ろうとしている時期のもの(多賀城市水道部提供)。

なお以上「末の松山浄水場」「天の山配水池」の地図上の位置については、2011年11月26日の掲載した「多賀城海軍工廠跡の現況」図でご確認ください。

塩釜市立病院になった「多賀城海軍工廠共済病院」

臨海鉄道となった「多賀城海軍工廠」引き込み線

【臨海鉄道となった工廠引込線】
仙台臨海鉄道は昭和46年7月に開港した仙台港とその背後の工業地帯と全国の鉄道網を結ぶ目的で昭和45年11月7日、国鉄・宮城県・東北石油などの進出企業の共同出資で設立されました。開業は翌46年10月1日で、午前10時から仙台港駅構内で開業式が行なわれました。当日の気候は「晴天にして風やや強く」、10時25分に三発の花火を打ち上げ、それを合図に石油を満載した第一号列車が山王駅にむかいました。当然ですが多賀城町長も来賓としてテープカットをしました。この臨海鉄道のルートは多賀城海軍工廠の引き込み線のルートをそのまま使用しています。